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多様な表現と文化が広がる「手話言語」の世界:当事者が語る、英語との共通点とは?

手話

※子どもたちと手話で会話する執筆者の南雲麻衣さん(右)

身近にありながら知る機会がなかなかない言語、「手話」。その手話から見えてくる「文化」を、手話使用者であるアーティスト、ダンサーの南雲麻衣さんが紹介します。南雲さんは、3歳半で失聴し、日本語を習得したあとに、第2言語として手話を身に付けました。日本語とは別の文法や表現方法を持つ、視覚言語の手話が見せる世界とはどのようなものなのでしょうか?

手話と日本語には異なる文化がある

はじめまして。海が見える文化施設でアート関係の仕事をする傍ら、アーティストとしても活動している南雲麻衣といいます。

私は、3歳半で失聴し、7歳で人工内耳埋め込み手術を受け、学校で聴覚活用*1を中心にコミュニケーションを取っていました。そして、大学進学の前に手話に出合い、日本手話*2を第2言語として習得しました。

手話を習得してからは、手話と、音声言語である日本語の2つの言語を使い分けています。

手話と音声言語の違いは、前者は手や顔などの視覚、後者は聴覚と音声を用いることです。

この2つの言語はそもそも用いる感覚(視覚、聴覚)が違うため、どちらを使うかによって、日常生活の中で言葉や物事に対して少し違った見方をすることがあります。例えば、言葉のニュアンス、礼儀、生活様式などへの見方です。これらの違いは、視覚と聴覚の違いから形成されていったのだろうと想像しています。

2つの言語を使うことで、自分の体験を通して、両者の微妙な違いを実感します。そのため、2つの文化を持つことになり、その体験は私を新たな世界に連れていってくれるのです。

多言語である手話から各地域の文化が見える

私が最初に手話を見たのは、高校生のときに受けた手話の授業でした。

当時は、手話を見ても何を言っているのか全く分からず、ただ手がダンスしているように見えて、言葉ではなく視覚芸術として、表情や息遣い、リズミカルに動く手に見とれていました。ろう者からは、「なぜ、手ばかり見るの?」と言われてしまうほどでした。

手話は「手で話す言語」と思われていますが、実は手だけではなく、眉などを使って助詞や接続詞を表すなど、とても「豊かな言語」だと思います。手話を使う人の表情が豊かに見えるのは、そのためです。

また、手話は、日本国内でも地方によって違いがあり、世界各地でさまざまなものが使われています。手話も音声言語と同じように多言語で、どれも魅惑的な表現ばかりです。

私にとって、手話という言語から見えてくる文化や歴史は興味深く、韓国やフィンランド、ドイツなど世界各国のろう者と交流しました。なぜこういう手話なのだろうと考えたり尋ねたりするのが大好きなのです。

例えば、「食べる」という手話は、箸を使うか、手で食べるか、食べ物をつかんで食べるかなどの文化によって異なります。この手話からその場所の生活をのぞくことができて、とても面白いと思います。

見たものを再現するかのように表せるCL

手話には便利な表現があります。

例えば、ある建物の話をするとしましょう。有名な建物には名前があります。もし名前が思い出せなかったら、どうやって説明するでしょうか?

おそらく、建物がある場所や建物の色など、特徴を一つずつパーツとして説明するでしょう。「あー、名前は思い出せないんだけど、こういうふうにとがっていて、こういうアーチがあって、こういう・・・みたいな形をした建物、あるよね?」というふうに。

でも、手話のCL(classifier=類別詞、類辞の略)という表現方法を使えば、自分も相手もその建物を見たことがあるなら、建物の名前が分からなくても困ることはありません。

CLとは、似た形や性質のものをまとめて表す語などのことです。音声言語の日本語にもあり、例えば、「~本」「~枚」といった、数字に続ける助数詞がそれに当たります。「~本」といえば、具体的に何かは分かりませんが、棒状のものだと分かりますよね。「~枚」なら、紙のように薄くて平たいものだと認識できます*3

手話で使われるCLは、さらに質感なども表すことができます。そのため、レゴブロックを組み立てていろいろなものを作るように、自分が見たものを形作り、映像で見せるように再現することができるのです。

建物なら、その特徴を、表情や手を使ったCLで表現すれば、相手がそれを思い浮かべることができて、「あ、名前は分からないけど、分かった!」と、すんなり共有できます。

このように便利な反面、ただ形を表すだけで共有してしまえるので、あえて名前を知ろうとしなければ、「名前のない建物」として認識し、永遠に名前を知らないままでいることもあります。

名前を覚えないことの良し悪しは別にして、まるで魔術師のように、空気を固めるようにして、そこにないものを模型で出現させるかのように表現するろう者をこれまで見てきて、そのたびに「見える!分かる!すごい!」と興奮の三拍子になります。

▼さまざまな動きをする「ボール」を表現するCLの例

言葉ありきではなく多層なイメージで表現される手話

私が今まで出会ってきたろう者の中に、手話に「言葉」の概念があまり見られず、CLのように「イメージ」に近い表現で話すおばあさんがいました。そのおばあさんは文盲(日本語の読み書きができない)でした。

そのおばあさんは私が見たことのない手話表現を繰り広げていくので、初めて対面する少数民族に出会ったような驚きとうれしさで、その手話表現にうっとりと見とれました。

おばあさんが子どものときにろう学校に通っていた当時は、手話が禁止されていて、聴覚口話法*4という教育を受けたそうです。「勉強が大嫌いで、真面目に授業を受けなかったんだよ」と、嫌なものを来させないようにするかのように手を払う表現などを使って話してくれました。

その手話は、若者が使う手話とは異なり、見たことがないものでした。言葉ありきの手話ではない表現が多く、伝わってくるイメージが何層にも重なります。おばあさんが手で語る人生は、言葉として伝わってくるというより、絵巻物を見ているようでした。

「心」の捉え方や表現方法は一つではない

あるとき、おばあさんと話していて、「え?これは何の手話だろう?」という場面がありました。

その手話というのは、へその下の辺りを示し、表情は力んだ感じで、何度も同じ表現を繰り返します。何の手話なのかさっぱり分からず、おばあさんに質問しても、言葉ありきの手話が多い私は、悲しいことに、おばあさんに質問の意図をうまく伝えられません。

それでも、イメージだけで捉えて読み取ろうと、それまで以上に想像力をフル回転させると、次第に何を言いたいのかが分かってきました。

その表現は、私たちがよく使う手話でいうと、「心」の意味でした。英語でいうと「mind」の意味ですが、現在の日本手話では、英語の「heart」と同じで、心臓当辺りに手で円を描くようにして、「心」を表します。

しかし、おばあさんは、へその下にぐっと力を入れることで、それを表現していました。

日本の昔の身体感覚に触れる

おばあさんの表現を見て、私が「心」だと理解できたのは、日本人のアイデンティティーにとって、「へそ」が体の大事な一部であると知っていて、へその下辺り、つまり丹田(たんでん)がスピリチュアルなものにつながっているという先人の知恵が刻み込まれていたからです。

そのときのおばあさんの話は、これまでさまざまな人に助けられ、自分も針仕事で人を助けてきたから、信頼関係ができたんだよ、ということでした。確かに、胸よりへその方がぐっと心に込めたものを感じ、言葉の意味と身体感覚がより近くに隣り合っていると感じました。

そして、それは力強い表現であり、心臓よりもへそを示す方が、信じるという意味の度合いが深く感じられ、おばあさんのこれまでの人生における仕事っぷりが伝わってきました。

おばあさんと会話していて気付いたことがあります。私たちの思考はだんだん西洋化してきて、それが手話にも現れ、「心」は心臓にあると思い込んでいるのです。

しかし、おばあさんは日本語の「言葉」に影響されず、あるがままの古来の手話を使っていたことに、私はいたく感動しました。「心」が実は「へそ」にあったという日本人のアイデンティティーや、言葉で表される以前の本質的なものに触れられた瞬間でした。

このように多様な表現が可能な日本手話はしかし、現在、危機消滅言語になっています。

日本手話が日本語と違うところ、英語と同じところ

私は手話を身に付ける以前は、母親から矯正されてしまうほど、日本語が上手ではありませんでした。そのことが恥ずかしい気持ちにつながり、内向的な性格になっていきました。

第1言語である日本語が聞き取れないため、日本語の習得が中途半端なままになってしまったということはあるでしょう。

しかし振り返ってみると、日本語自体が私にとっては難しく、その理由は、しばしば言われるように、日本語は「迷える言語」だということがあるのではないかと思います。

「目は口ほどに物を言う」ということわざがありますが、「手は口ほどに物を言う」とも言いますよね。手話使用者は、物事をストレートにはっきりと伝えます。日本手話では文法として、最初に言いたいことを言い、あとでその理由を説明していくという形が成り立っているのです。これは日本語よりも英語の構造に近いと思います。

私が日本語を難しいと思ってしまうのは、一番言いたいことを最後に持っていくという構造のためか、答えのようで答えでないような曖昧な表現も含めながら説明していき、迷いながら答えにたどり着くという、「迷える言語」だからではないかと思います。

このような特徴のある日本語を理解し操ることは、おそらく小説でいうと行間を読むような感覚に近いと思います。私には、それが苦痛なときもあったのだと、手話を覚えてから気付きました。

手話は言葉の潜在的なものを見える形で「表す」のを得意としますが、日本語は見えないものを推測して「読み取る」ことに長けていると思います。言語にも性格があり、好みがあると思うので、実は、第1言語がそんなに得意ではないことは、必ずしも珍しくないのかもしれません。

こうしたことは、2つの言語を習得し、2つの文化を手に入れてこそ、気付くことです。

言葉に閉じ込めきれない本質や美しさ

手話には、視覚言語ならではの、「言葉」には翻訳できない表現やCLがあります。

「言葉」は、ものに「名前」を与えたものであり、他者とのコミュニケーションや思考のツールとして働きます。しかし、実際のものを「言葉」で表すことにより、「言葉」が持つ意味の受け止め方は人によって変わってくることもあり得ます。

手話は、「言葉」とは異なる表現形態を持つ視覚言語であるゆえに、「言葉」になる以前の、「名前」を付けられていない状態のものも表現できる言語です。

一方で、「言葉」である日本語には、言葉のリズムや言葉が想起させるイメージの広がりによって表現する俳句や詩、また、あえて言葉の使い方や文の構造を崩して、新しかったり独特だったりする表現を生み出せることなど、手話とはまた違った素晴らしさがあると思います。

手話も日本語も、「言葉」という記号に閉じ込められない美しさを秘めていています。

私は、お伝えしたおばあさんとの出会いのように、言葉だけでは捉えきれない本質的なものに、さらに触れていきたいのです。そのために、もっと広く寛容に世界を見ていきたいと思っています。

参考TED動画「言語はいかに我々の考えを形作るのか」

レラ・ボロディツキーさんのTEDプレゼンテーション、「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を紹介します。この内容は、私が手話思考や日本語思考を考える上でヒントになりました。

▼TED動画

www.ted.com

南雲さんが「アートと身体」を語るイベントに登壇

南雲さんが、2019年11月23日(土)に東京で開催される「アートと身体」がテーマのトークイベントに登壇します。これは、「育成×手話×芸術プロジェクト―アートを通して考える―」のプログラムの一つです。

▼イベント詳細

townofsl2020.wixsite.com

南雲麻衣

文:南雲麻衣(なぐも まい)

平成元年生まれ。3歳半で失聴、7歳で人工内耳埋め込み手術を受ける。文化施設の運営とアートなどの企画の仕事の傍ら、アーティストとしても活動する。近年は、当事者自身が持つ身体感覚(ろう[聾]する身体など)を「媒体」に、各分野のアーティストと共に作品を生み出している。

Twitter @kumonotabi8

編集:GOTCHA!編集部/プロフィール写真:Mika Imai

*1:補聴器や人工内耳を使用し、聴覚を使ってコミュニケーションを取ること。

*2:文法をはじめ、日本語とは全く異なる言語体系を持つ。手や指、腕を使う手指動作だけでなく、非手指動作と呼ばれる、顔の部位(視線、眉、頬、口、舌、首の傾き・振り、顎の引き・出しなど)が重要な文法要素となっている。なお、「日本語対応手話」は、日本語に対応させて手話単語を並べるものであり、文法などは基本的には(音声言語・文字言語の)日本語のそれと同様のものである。

*3:参考文献:『手話の世界を訪ねよう』(亀井伸孝著、岩波書店)46ページ。

*4:健常者の口の形と補聴器などから聞こえる音を頼りに発音を覚えて、相手の口の形から何を言っているかを推測し、自分も発話することで、音声による会話ができるようにする訓練方法。